Episode 5
“Designing for Serendipity”
by Kenta Umemoto (Photographer)
花をモチーフにしたアートピースは少なくありません。花柄の衣服も珍しくはない。それでもなお「TYPE-VIII Kenta Umemoto project」のワンピースやジャンプスーツには、不思議な美しさが宿るように感じます。圧倒的で儚い。不定形のゆらぎのような美しさ。パリを拠点とする新進の写真家、梅本健太の「FLŌRA」シリーズを衣服へと再構築するプロジェクトの背後には、どのような物語があるのでしょうか。必然と偶然、作為と不作為、緻密なプログラムとフィジカルな揺れ。アーティストとA-POC ABLE ISSEY MIYAKEのデザインエンジニアによる真摯なクリエーションの軌跡を、対話を通じて探ります。

「個々の花に宿る可能性を引き出したい」。写真家として花と向き合い続ける意図を、梅本健太氏はこのように語ります。2018年頃より自宅で制作が始まったエチュードは、のちに「FLŌRA」というタイトルの連作となり、デジタルとアナログの技術を組み合わせた実験的で美しいイメージは、静かに共感の輪を拡げていきました。A-POC ABLEのデザイナー、宮前義之もそのひとりです。
ふたりはやがて知遇を得て、エンジニアリングチームとともにプロジェクトを開始。この秋に発売された「TYPE-VIII Kenta Umemoto project」へと結実していきます(驚くほどなめらかに)。当然その背後にも、クリエイティブな対話や行為が行なわれてきましたが、今回はそれよりもさらに遡ったところから対話が始まります。
なにしろ梅本氏は、これよりさらなる飛躍が期待される写真家。20年に渡仏し、パンデミックに見舞われながらも、貪欲に独自の表現を探求し続けていまがあります。つまりその往時や思考について訊くことは、「TYPE-VIII」という協業プロジェクトをより深く知るためにも、あるいは新鋭作家のさらなる飛躍に驚かぬためにも、大切なことだと思うのです。
──梅本さんが写真という表現を始めたのはいつからですか? どのようなきっかけがあったのでしょう。
梅本健太(以下、梅本) 写真は大学生の時に始めました。通っていた大学の講義にフォトジャーナリズムがあって、それをたまたま受講したのがきっかけですね。講義の内容がけっこう面白くて、戦場カメラマンやフォトジャーナリストみたいなことをやりたくなったんです。すぐに上野まで行ってカメラを買い、当時教授がやっていたワークショップにも参加するようになりました。
それからはキャノンのデジタル一眼レフを持っていろんな国を巡ったり、南国の環境問題など自分でテーマを決めて取材、撮影、記事を書いたりしました。19とか20歳ぐらいでエネルギーは溢れていて、いろんなことにトライはしていたと思います。フォトジャーナリストだ、みたいな気持ちもあったと思うけど、いまから考えれば真似事でしたね。本物のジャーナリズムもわかっていなかったし。
──それでも職業としての写真家になろうと思うほど、写真には熱中していた?
梅本 写真がやりたいとは思っていましたが、まだまだ漠然としていました。そのような状態の頃に、東日本大震災が起きて、当然、写真をやっていた知人や友人は、みんな撮影をするために被災地に行ったのに、僕はまったく動くことができなかったんです。本能的にやりたくなかったし、やれなかった。もどかしさも感じたし、少し心身を患っていた時期でもあったので、それも理由にはなります。でも結局は、災害を撮影して、通信社やメディアに売るという仕事の特性、メンタリティが、僕にはどうしても合わなかった。
それからすぐにフィルム撮影の勉強を始めたんです。自分がやりたいのはこっちだったんだ、と思いました。それからは大学に通いながら、本やインターネットで調べたり、短期講座に通って実際に暗室作業を体験したりしていました。写真に関しては、ダブルスクール、トリプルスクールのようなかたちで、学生生活と並行してやっていたので、機材や教材、講座とかでお金ももちろんかかったし、いろんなアルバイトもしましたね。
──なぜそこまでして、ジャーナリズムではなく写真そのものの表現を追求したかったのでしょう?
梅本 なぜでしょうね。そうまでして写真に食らいついている理由は、実は今でもわからないんです。ただ単純にイメージを作ったり撮影するのは好きですが、なぜ好きかと問われたら困るというか(笑)。カメラが好きなわけでもないし、むしろ機材も何でもいいくらいのスタンスだし、自分が面白いと感じることをやり続けている、やってるから好きということになるかもしれないですね。
宮前義之(以下、宮前) 大学生の頃はフィルムで何を撮影していたんですか? ジャーナリズムではなく表現を追求するようになってからは。
梅本 街を撮ったり、人を撮ったりですね。これといったテーマもなかったのですが、あの頃はまだフィルムもいまほど高価ではなかったので、いろんな対象を撮影しては、自分で現像していました。キッチンに簡易的な暗室をつくって、ガスコンロだけ残し最低限料理はできるようにしておいて、35mmカメラから、中判や大判のフィルムの撮影、現像、プリントを夢中になってやっていましたね。
──その当時、興味をもっていたり、目標としていた写真家やアーティストはいましたか?
梅本 大学のキャンパスが東京の神保町にあったので、古本屋で写真集をいっぱい見ていたんです。そのなかで個人的に感銘を受けたのは、田原桂一さんという写真家でした。光と影を使った作品が当時の自分にすごく響いたのと、日本人でありながらフランスを拠点にして、写真だけでなく多彩な分野で表現を貫いている姿勢とその才能に憧れがありました。それからずいぶん経ってですが、一緒に食事する機会があって、話しているうちに嬉しくて泣いてしまいましたね。(笑)
──大学を卒業後はどのような活動をされていたんですか?
梅本 半年遅れだったのですが、大学を卒業して、それからはとにかく色んな業種のアルバイトをしていました。写真の仕事をやりたかったけれど撮影の仕事もなかったので。しばらく経って、山形を拠点とする着物の会社が東京で写真館をオープンするためにカメラマンを探している、という話をいただきました。同郷ということもあって僕に話が来たんだと思います。
面白そうだと思ったし写真の仕事だったので引き受けることにしました。撮影したのは成人式などの記念写真。着物の会社の写真館なので、着付けをしてもらった人たちと、着物やファブリックを撮ります。つまるところ記念写真なので「はーい、笑ってくださーい」という感じの撮影ですね。結局、5年間続けることになりました。後から数えてみたら、合計で約4,000組くらい撮影していました。ただひたすらずっと人とファブリックの撮影。今思い返すととてもいい訓練になったし、いまの僕の基礎になっているとも言えますね。
──写真館の撮影となるとライティングの技術なども必要になると思いますが、どこかで身につけていたのでしょうか?
梅本 ライティングはとても重要ですが実はそれもすべて独学です。インターネットで検索するといろいろ出てきたし、機材の使い方もネットでかなり知ることができます。僕の性質なんだと思いますが、とにかくまずは自分でできる限り勉強する。それでもわからないことがあれば人に教えてもらう。依頼されたことはとにかくすべて「はい、わかりました。やります」と応える。もしわからなければ──最初はわからないことばかりでしたが──帰ってから急いで調べて勉強する。そんなふうにして、ライティングや撮影のスキルを身につけていきました。
──なんというか、すごく特殊なことのように感じます。通常は撮影スタジオや写真家に弟子入りしてライティングを身につけていくことが多いと聞きます。
梅本 そうですね。一般的なステップアップの方法ではないかもしれません。僕は結局、誰にも師事することなく、すべて独学でいまに至ります。結果的にはそれでよかったと思うし、いまの作品や活動にもつながっているんだと思います。当時はやはり、誰かに弟子入りした方がいいのかと思うことはありましたね。ただ、先輩に教えを請うとか、媚びたり、群れたりするのとかも好きではなかったし、とにかくまずは自分でやってみたい。自分でやってみて、そこから学んでいきたいという信念のようなものがありました。この部分はもしかしたらいまでも大きくは変わってないかもしれません。振り返れば、なんて生意気なヤツだと思います(笑)
──強い独立心や自律性ようなものでしょうか。アーティストには欠かせない気質のようにも思いますが、その一方で、失敗などを招きやすくなってしまう恐れもありますね。
梅本 実際、細かなものも含めれば、たくさん失敗もしてきたと思います。もちろん後から振り返って「ああしとけばよかった」とか、クヨクヨすることもあるけど、引きずったりはしないですね。なぜ失敗してしまったかを考えて、反省して、それを学びに変えていこうとする気持ちのほうが強いです。だから「失敗してしまった」という感覚があまりないのかもしれない。またやればいいというスタンスです。
もちろん、経験や知識が不足しているという自覚はあったからこそ、とにかく準備はかなり入念にしていました。徹底的に予習をして、何事もなかったようにスタジオに入って、プロのカメラマンらしくクールに撮影をする。というスタイルを貫いていましたね(笑)。
──写真家として独自に学んでいくこと、表現を探求することへの、強烈な意思を感じます。
梅本 はい。それについては、常にいつもハングリーですね。見たいと思ったら、見られるまで追いかけるし、やりたいと思ったら絶対やる。遠慮なくガツガツしてますよ。すごくよく食べるし(笑)。プレッシャーもすごくあるけれど、それと向き合うことも結局は自分を強くするというか。仕事も作品もすべてひとりで向き合って、責任を背負ってアウトプットしようとするのも、そういうメンタリティのせいかもしれません。
──ハングリーな気質は、それこそフォトジャーナリストの適性のようでもありますが。
梅本 大学生の頃はそこまでガツガツしていなかったんですよね。たぶん自分自身の根っこはそこまでハングリーでもないんです。自分のなかにあるイメージや、美しいと感じたこと、感情や想いを写真やビジュアルによって外に出すという点で、ガツガツしているのだと思います。ハングリーのベクトルが違うのかもしれません。

──現在はパリを拠点にされていますが、どのような経緯で渡仏されたんですか?
梅本 写真館の仕事を続けているうちに、フランス人のクリエイティブディレクターから突然メールで撮影の依頼がきたんです。最初は資生堂のコンテンツの撮影の依頼でした、そこからプロダクトの撮影もするようになり、それを通じて色んな対象を撮影するようになりました。それ以前から海外を拠点にしてフォトグラファーとして活躍したいという想いもあったので、写真館の仕事のあとに、自宅で個人の作品を制作してポートフォリオをどんどん充実させていきました。
そうこうしているうちに、19年に結婚式を挙げ、写真館の仕事を新婚旅行という体裁で休むことができたので、ポートフォリオを抱えて妻とパリに行きました。エージェントのアポイントもとって、5〜6件くらい回ったと思います。そのなかの1件がいま僕が契約しているエージェントでした。名のあるグローバルなアーティストが多く所属するエージェントで、まさかと思ったけど契約できることになった。契約すれば、複数年のビザ取得の扉が開かれるので、もう行くしかないと思って、写真館の仕事を辞めて、パリに行くことにしました。それが2020年のことです。
──日本でも活躍の場が拡がりつつあった頃に、すでに視線は海外で活躍することに向いていて、具体的に行動もされていた。
梅本 国内だけに向いた仕事では満足できなかったんです。海外というか世界を相手に写真をやりたかったし、撮影の仕事を重ねていくほどに、世界を舞台にして活躍できる写真家になるという目標が明確になりました。それであれば、中途半端に海外と日本を行ったり来たりするのではなく、海外を拠点にして活動するべきだし、そこで通用するフォトグラファーになるにはどうしたらいいのか、ということにフォーカスして写真と向き合うようになっていきました。だからもう行動あるのみで。
──2020年に渡仏ということは、パンデミックと重なりますね。影響は大きかったのではないですか?
梅本 20年の1月に東京の自宅を引き払い、当初は僕だけが単身で行くことになりました。ビザの取得に手間取ったりしたために、実際に渡航できたのは2月の後半です。その2〜3週間後にヨーロッパでもパンデミックが拡がっていき、突如ロックダウンのアナウンスがあり強制帰国しました。それからは7カ月間、山形の妻の実家で暮らしていました。当然仕事もなかったので、ひたすら花を撮影していましたね。
それから10月になって再び渡航ができる状況になったので、パリに戻りました。けれどそれから1,2年間はかなり過酷なサバイバルでしたね。エージェントとの契約もフリーランス契約なので保証はないし、自分の実力で仕事をもぎ取ってくるしかない。けれどパンデミックの渦中だったから、外出にも許可証が必要で、ポートフォリオをもって営業に行くことも難しい。できることといったら自分でどんどんアウトプットしていくことだけでした。作品をつくって、Instagramにポストしたり、PDFにまとめて見てもらいたい人にエージェントを通して送ってもらう。
収入はないので、小さな部屋で妻と暮らしながら、貯金を取り崩して切り詰めた生活をする。毎日のように、貯金と生活費と家賃を比較して、あとどれだけパリで暮らせるかを計算したりしていました。あまりに生活が厳しいので、一度だけ近所のパン屋で働こうかと思ったこともありましたが、堪えましたね。そもそも写真をやるために来たんだから、その目的からブレる訳にはいかなかったし、自分は写真家なんだというところだけは、何があっても絶対守ろうって。
──下積みのような過酷なスタートとなったんですね。
梅本 本当に最初の1年間は、仕事もひとつあったかなかったかくらいでした。いまになったら、やっぱりああいう経験もしなきゃ駄目だな、ああいう時間もあってよかったと思えますが、間違いなく当時は、地獄のようでした。(笑)ただ逆にそういう環境だったからこそ、やることがなくて、自分の作品にしか向き合うものがなくて、時間がたっぷりあったからこそ「FLŌRA」が発展していきました。
──しかし不思議なもので、その花を撮った「FLŌRA」という作品を宮前さんも見ていたそうですね。
宮前 とあるアートとデザインのメディアで、梅本さんの作品が紹介されていたのをたまたま目にしていたんです。たぶん21年とかだったと思いますが。すごくいい写真だなと感じた記憶があります。その1年後くらいに、そのメディアの方から紹介したい人がいると連絡があって、それが梅本さんでした。
梅本 パリで活動を始めてから2年くらい経って、ようやく自分で渡航費を払って日本に帰れるようになりました。せっかく帰るなら共振するような人と会って話がしたかったので、その方に相談したんです。そうしたらすぐに宮前さんの名前が挙がって、連絡先を教えてもらって僕からメールをお送りしました。
宮前 そうでしたね。その時はイッセイ ミヤケのオフィスで梅本さんの作品を見せてもらったり、お互いにどんなことをしているかとかを話しました。そしてその翌年、23年の2月頃に今度はパリでお会いする機会があったんです。というのも22年にある舞台の衣装をつくったのですが、それは衣服に金箔を圧着するという方法を試みたものでした。そのときに、箔ではなく何か別の表現でこの方法を拡張できるのではないかと思うところがあったんです。それで梅本さんの顔が急に思い浮かびました(笑)。
梅本 たしか「夢に出てきた」とおっしゃいましたよね(笑)。僕の念が通じたのかもしれません。それでその年の春に仕事のために東京に戻ってきたときに、エンジニアリングチームの中谷さんや高橋さんともお会いして、今回のプロジェクトが具体化することになりました。
──プロジェクトを始めるにあたって、デザインエンジニアとしてどのようなことを考えていたのですか?
中谷 学(以下、中谷) これまでもずっと、スチームストレッチにどういう表現を加えていけるかを模索はしていたんです。プリーツ状の生地の上にプリントすると綺麗に見えるのも理解はしていて。けれど、その色や柄やビジュアルのストーリーまで描けないと、ただ綺麗な生地というだけで終わってしまう。なのでそこからさらに先に進むことが難しくて、スチームストレッチに関しては、素材自体や技術のプロセスの部分と向き合ってきました。
それで宮前から「FLŌRA」の写真を見せてもらったとき、圧倒的に美しいと感じました。その感動を、僕たちがそれまで培ってきたスチームストレッチのプリーツやひだの設計によって、より際立たせたり、コントラストを生み出したりすることができるのではないかと思ったんです。とてつもなくシンプルに美しい衣服として表現できる可能性を感じたというか。
高橋奈々恵(以下、高橋) お会いしたときに梅本さんの写真を見せてもらって、どういうタイプの作品がよさそうかを話しましたね。そこからはパリに戻った梅本さんが新しくつくった作品をいくつも送ってくれたり、こっちでは作品をセレクトしてサンプルをつくったり。東京とパリで離れていたけど、すごくスムーズに進んでいった記憶があります。
梅本 9月にみなさんがパリにいらっしゃったんですが、既に服になっていました。その服をつくるプロセスも、服自体も見たことがないもので、すごくびっくりしました。紙から剥がすと服が出てくるんです。ポラロイド写真みたいに。
星野貴洋(以下、星野) 「FLŌRA」のシリーズでは、さまざまなアナログとデジタルの手法を実験的に取り入れて制作されているとお聞きしたので、僕たちも当初はさまざまな加工やプリントのアプローチを試みていたんです。そのなかでも熱による転写プリントが写真の色を綺麗に表現することができたので、この方法を選びました。
工程としては、まずスチームストレッチによってプリーツやひだの入った白い服をつくります。とても立体的な服ですが、それをプレスして平面状にする。そのフラットになった服を梅本さんの写真を再現した転写紙で挟み、熱と圧力をかけて転写します。その紙を剥がすと、プリントされた衣服が出てきます。平面的に転写プリントするとはいえ、立体的な衣服としての美しさやシルエット、首元の襟ぐりの設計などは、もちろんかなり緻密に計算しています。
──衣服によって作品をトリミングするような転写をしていますね。
高橋 大きさを変えたり、位置を変えたり、いろいろトライしました。白い部分をどれくらい残すかとかも。どれが一番綺麗かを選んでいくと、不思議とみんな同じものになっていきましたね。
中谷 印象に残っているのは、作品をトリミングしてもいいかを尋ねたときに、「何でもいいです」って梅本さんがおっしゃたことです。やはり作品なので、それを回転させたり切り抜いたりするっていうのは、僕たちとしては抵抗がありますから。おそるおそる尋ねたら、「180度回転させてもいいし、小さくしても、大きくしても、どこを切り取ってもいいですよ。綺麗だと感じるままに好きにしてください」って。
梅本 なんていうか僕の写真を見たいなら、僕のウェブサイトを見ていただけばいいだけです。写真ではなくて衣服をつくっているわけですから、A-POC ABLEのみなさんがいいと思ったことをやっていただくのがベストだと思うんです。だから僕が「こうしてください」と言うのはナンセンスというか。そんなこと言われたら、制限がかかってしまって面白くないと思いますし。
このプロジェクトは協業によってつくられるものなので、みなさんの出力もマックスの状態の方が強くなりますよね。僕も全力でつくった作品ですから、それを衣服にする際にも、制限なく自由にやっていただきたいですし。ただ根底には、A-POC ABLEのみなさんだったからこそ全部お任せしたくなったというのもあります。写真も服も、結局は人がつくるものだと思うので、人として、チームとして好きかどうかというのが大事なんだと思います。

──遡った質問になってしまいますが、そもそも「FLŌRA」はどのようなコンセプトでつくられているのですか?
梅本 撮影した花を基礎としていますが、重層的にプロセスを重ね、美しさがゆらいでいくというのをテーマにしています。というのも僕は写真家ですが、写真を撮るという行為には結構限界があると感じていて、写真を絵画的な表現にするためにどうするかいつも考えています。写真にフィジカルなプロセスを重ねていくことで、歪みとかグリッチとか、あるいは失敗とかを前景化させていくというか。そういう手法によって、自分が見たいと思うイメージに作り変えていきます。モニター上で弄り回すのではなく、マニュアルのプロセスを通して偶然現れるエフェクトなどを生かすことで、不完全だけれどパーフェクトなイメージをつくることを意識しています。
──手仕事によるエラーをあえて取り込んでいくことで、美しさがゆらいでいく。作品をつくる際には、明確なビジョンを形にしていくようなプロセスなのでしょうか。
梅本 そうですね。もちろんビジョンもあって具体的にプランニングもしますが、たいていはその通りになりません。詳細なスケッチを描きますが、不思議なもので自分の頭の中で思い描いていたものよりも、その通りではないもののほうが、結果的にはより美しいと感じます。いくつかパターンをつくっていくわけですが、そのなかから吟味していくのも重要なプロセスですね。時間もけっこうかかります。
高橋 私たちのものづくりも似ているところがありますね。材料も方法もすべて準備して現場に持っていくのですが、だいたいは頭の中で想定していなかったものができ上がっていく。いろんなことを試しながらつくっていくので当然ですが、現場には長く一緒に仕事をしてきた人たちがいるので、美意識が共有されているから、いろんなことを試していても、「これがいいよね」というところに収斂されていくというか。
中谷 今回のプロジェクトでいうと、スチームストレッチによってつくるプリーツのひだが、写真のなかで余白のようなものを生むような設計になっています。梅本さんの作品づくりのプロセスでも、フィジカルな手法によってエラーを起こしていくというのがありましたが、衣服においても偶然に生まれる美しさのようなものを、どうやって表現できるかというのが重要なポイントでした。
とはいえ、スチームストレッチの精度はとてつもなく高くなっているので、布やプリーツ自体には偶然性は生まれません。どの部分がどの方向にどのように縮むかはすべてプログラムされているのでエラーは起こり得ないのです。けれど今回の転写加工に関しては、立体をフラットにするという加工があり、さらに手作業による微妙なズレや見当の曖昧さを許容することもできる。それによって偶然というか、表現のゆらぎが生まれます。つまり偶然の裏側には、精密なプログラムによる必然的なプリーツとひだがある。その二重性のようなものによって、美しい花のイメージと衣服を融合することができたと思います。
梅本 なるほど。写真がただプリントされているだけでは、きっとこのような衣服にはならないんですよね。自分がつくった作品ですが、まったく違う命を吹き込まれているような感じがしました。
──「TYPE-VIII Kenta Umemoto project」のビジュアルも梅本さんが手掛けられたそうですね。
梅本 はい。今回のプロジェクトはその部分までがひとつながりになっています。撮影からポストプロダクションも含めて、プロジェクトをどのように表現するかまでを担わせてもらいました。「FLŌRA」のシリーズで追求しているテクニックも駆使しながら写真を作り込んでいったので、プロジェクト自体がひとつの作品として見せることができたと思っています。妻にモデルをしてもらっていますが、服をどのように見せるか、どのような動きだとより美しく見えるかなどは、かなり緻密にふたりで予習をしましたね。人が着た姿を最終的に写真にすることができて良かったです。
宮前 東京のスタジオで撮影をしたのですが、ライティングがとても面白くて。当然といえば当然ですが、モデルをしてくださったリサさんとの呼吸もぴったりで。あれが別の人だったら、このようなビジュアルにはならなかったでしょうね。とても強い表現になったし、梅本さんとのプロジェクトとして完結することができたと思います。写真展としてお披露目されているので、多くの方々に見ていただきたいですね。
梅本 宮前さんが大きくプリントしたいと言ってくれたので、ラボの限界のサイズまで大きくしています。ぜひみなさんに体験してもらいたいです。

「TYPE-VIII Kenta Umemoto project」展示
ISSEY MIYAKE GINZA | CUBE
会期:9月1日(日)ー 10月28日(月)
ISSEY MIYAKE SEMBA | CREATION SPACE
会期:9月1日(日)ー 10月26日(土)

KENTA UMEMOTO
梅本健太 パリを拠点として活動している日本人写真家。明治大学在学中に大学の講義で写真と出会い、その後、日本の伝統的な着物の会社や資生堂の化粧品のスティルライフの撮影を始める。ビューティー、ボタニカル、ランドスケープへと興味の対象は広がり、インスピレーションの源泉である日本の浮世絵や漫画の独特な色使いから影響を受け、写真と絵画的な表現を融合させた独自の作風を発展させている。
次回のEpisode 6では“On a Single Plate”についてお届けします